今日の勿来高校

超能力・・・

10月6日(火)中間考査2日目です。1年生は「国語総合」「数学Ⅰ」、2年生は「現代文B」「コミュニケーション英語Ⅱ」、3年生は「世界史A」「簿記」「生物演習」「数学Ⅱ」です。

テストになると、あるマンガに出ていた教科書の内容を写し取り、食べると暗記できるパンを思い出します。

ところで私が子どもの頃、テレビなどで盛んに「超能力」についての番組が組まれていました。力を入れずに曲がるスプーン、カメラに向かって念じると頭の中の映像が現像される念写などです。

中でも今でも鮮明に記憶している場面があります。ある薬の瓶から触れることなく薬を取り出すことができる能力を持つ人が紹介されます。

カメラは回るのですが、一向に薬は瓶から出てきません。その人は言います。今日は調子が悪いと。

私は超能力を信じます。というより人知の及ばない部分がまだまだこの世に存在していると思います。

ただし、例えば瓶に触れることなく薬を取り出すことができたとしても、状態によって成否が変わってくるのなら、はじめから手を使って蓋を回した方がよいのではないかと思うのです。

誰しも夢があります。しかし、今すぐに叶えられる「超能力」は持ち合わせていません。だからこそ人々は今できることを積み上げていきます。それこそが過去の自分に持ち得なかった「超能力」なのではないでしょうか。

 

一歩ずつ着実に力を身につける姿勢こそが、夢を実現する第一歩です

 

敷地内にたくさんの「曼珠沙華」が咲きます。季節を感じさせてくれます。

生身の人間・・・

先日、『ノッティングヒルの恋人』を観ました。街の本屋さんが映画女優さんと恋をします。レストランで食事中、隣席するグループから彼女の噂話が聞こえてきます。

そのくちさがない内容に男性は「その人も生身の人間だ。相手の気持ちも気遣うべきじゃないかな!」と抗議しました。
私たちが芸能人さんの噂話をすることは珍しいことではありません。特にゴシップ記事となれば、真偽のほどはともかく、話しに花を咲かせます。

ところが私たちはその人物がどのような人か知りません。会ったことや話したことすらありません。切り取られた写真や記事から、その人間像を創り出します。

 

10月2日(金)、1年生がスマホケータイ教室を通信会社の講師の方から受けました。SNS上に流される写真やメッセージが時に人を傷つけます。

それを防ぐことができない人に、スマホやケータイを使う権利はないと伝えられました。

私たちは目の前の相手なら、愛をもって接することができます。

ところがスクリーンや画面、紙面を通すと「生身の人間」ということを忘れてしまい、2次元の世界の創り出されたキャラクターとして扱ってしまうことがあります。

どのような時も相手が自分と同じ世界に住む、血の通った人間であることを忘れてはいけません。自分がそうであるように、その人も幸せになろうと一生懸命生活しているのですから。

そのように思うことができる感性を育ててください。

テスト・・・

10月5日(月)2学期中間考査初日です。1年生は「地学基礎」と「現代社会」、2年生は「日本史B」と「数学A」、3年生は「現代文B」と「教養数学(選択者のみ)」と「化学基礎」です。

 

ところで「test」とは試験や検査、試練などの意味があるそうです(東京書籍『アルファフェイバリット英和辞典第2版』)。

もともとは土製の壺を意味し、金や銀の純度を調べるために用いられていたそうです。派生語には「contest」「protest」などがあるそうです。

前者は接頭語「con(共に)」に「test」で「共に証拠を出し合うこと=コンテスト」、後者は接頭語「pro(前に)」とつながり「証拠を前に出す=抗議する」となります(The English Club H.Pより)。

こうしてみると言葉は変幻自在にその形や意味を変えていくことが分かります。使われていた時代の人々が、どのようなことを考え、どのような生活をしていたのかが、浮かび上がってくるようです。

 

さて、今日から君たちがこれまで学校でどのように過ごしてきたのかが「検査」される3日間が始まります。みなさんにとっては「試練」かもしれません。

ただしそれは「試金石」でもあります。結果の善し悪しに一喜一憂せず、今後どのようにすればよいのかを考えるきっかけにしてください。

 

試験に備えて、勉強する君たちに幸多からんことを祈ります!

 

作り出す力・・・

9月30日(水)、今日は先生方の研修のため、45分の短縮授業です。秋晴れの中、2年生の「情報処理」の授業を見学しました。

この日は、パソコンを使わず、机上で関数の学習をしました。「Rank」「Vlookup」と会社の売上帳を作成する上で必要とされる関数です。

会社では、膨大な製品や商品の原価や売価、売上高に利益率、販売個数などをもとに、経営戦略を練ります。ほとんど全ての企業がこのような管理をパソコン上で行っています。

このようなソフトを専門に扱う人をシステムエンジニアといいます。25年前、私が大学生の頃、指紋認証システムを開発する会社に応募しました。

その頃、たまに耳にする職種でしたが、今では社会になくてはならない職業です。

現在、AI技術の発達による社会環境の急激な変化で、これまでにあった職業は、人から機械にとってかわられるという話を耳にすることがあります。

自動運転が実用化されれば、運転する人はいりませんし、学校だって、先生は必要ないかもしれません。

でも私は思います。人は社会の変化に応じて、必要とされる人や事柄を見つけ、働く場所を創り出すものだと。「生きる力」を身につけましょう。

そのためにも生涯自分で自分自身を磨くことのできる方法を高校にいるうちに育ててください。

 

きれいな青空です。もうすっかり秋ですね。

たがいに素・・・

9月29日(火)、今日は2年生数学Aの授業に参加しました。「たがいに素」という言葉が出てきました。きっと私も学生時代習った言葉なのでしょう、何となく懐かしさを覚えます。

 

2つの数字の最大公約数と最小公倍数を、共通する素数で分解してきます。

共通する素数を掛け合わせたものが最大公約数、全ての素数を掛け合わせたものが最小公倍数、ところが共通する素数が1しかない数字同士があります。

従って最大公約数は1、最小公倍数は互いの数を掛け合わせた大きな数になります。この関係が「たがいに素」なわけです。

 

「たがいに素=共通するところがない」といわれると何となく寂しい気持ちになります。

ところが、数学の参考書に次のようなコラムがありました。アメリカに生息する「素数ゼミ」の話です。

アメリカ南部に生息するセミは13年ごとに羽化します。北部のセミは17年ごとだそうです。「たがいに素」の関係ですから、最小公倍数は13×17=221。

221年に一度しか出会えない南部・北部のセミ同士には大きな隔たりができる一方、同じ周期を持つ仲間とは出会いやすくなります。

長い時間を暗い土の中で過ごし、同じ仲間と一斉に出会うために素数の周期で生きるセミたち――。

広大なアメリカ大陸に暮らすセミたちが、現在まで生き残ってこられた戦略なのでしょう。

 

もしかして「共通するところがない」ということは、「お互いの違いを尊重する」ことにつながるのかもしれません。「共生社会」の入口のような言葉でした。

 

いつの間にか扇風機にいらない気候となりました。